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2013年6月30日日曜日

終わりの時(ハルマゲドン)は来るか?

聖書を長年調べてきた者として,「終わりの時」「ハルマゲドン」が来るのかについては非常に関心を向けてきた。

終末思想に立つ“クリスチャン”からすれば,終わりの時は確実に来るものとして待望されている。

筆者はそうした信仰を尊重するが,そうした待望を絶対的なものと盲信し,自分の人生,未来,家族を捨てて,不幸に至ってしまう人を見過ごすわけにはいかない。

待望する生き方に疑問がない人はそれでよいが,いまいちど,立ち止まって確かめたい人には,これから述べることを参考にしてもらいたい。

  1. ギリシャ語聖書と言われているマタイから黙示録までの記録に信憑性はない

    昨今の考古学研究により,マタイによる福音書から黙示録(啓示の書)までの記録には,その信憑性がないか,あるいは非常に疑義があることがわかってきた。

    福音書はそれぞれ,マタイ,ルカ,ヨハネ自身がそれぞれ自筆で書いたものと考えている人は多いが,そうではない。実際に書いたのは,キリスト教勢力の拡大をねらった,後代の者たちである。新約聖書に何を含めるかは,後代の初期キリスト教会が勝手に決めたものであり,彼らは自分たちに都合の悪い内容の“福音書”を抹殺し,人気があって教会統治に役立つ“福音書”を正典に採用した。

    これらの,ごく最近の研究結果については,ディスカバリーチャンネルやナショジオの放送が「失われた福音書」として詳細に放映している。(リンクはこちらをクリック


  2. 終末思想そのものは,聖書のもともとの考え方ではなく,追放された大祭司たちが異国の地で悶々としていたときに編み出された考え方である

    これは京都大学出版会の「乗っ取られた聖書」という研究書が論じていることであるが(【楽天ブックスならいつでも送料無料】乗っ取られた聖書 [ 秦剛平 ]),ローマ支配の時代に,帝国はイスラエルの歴史を報告するよう,ユダヤ人に頼んだ。ユダヤ人は喜んで自分たちのヘブライ語聖書(旧約聖書)を翻訳してローマに献上した。それが有名な「七十人訳」(セプトゥアギンタ訳)である。本当は72人だったようだが,それはともかく,翻訳者たちはある問題に頭を抱えていた。

    それは,ローマが,ユダヤ教だけでなく,他国の他の宗教指導者たちにも自分たちの教えと歴史を献上するよう求めていたからだ。他国の宗教は平気で自分たちのルーツを数万年前と表現していたことから,ユダヤ人も負けじと,創世記の冒頭部分を改変し,自分たちの歴史の古さを相当年数水増ししたりした。

    改変はそれにとどまらず,ヘブライ語聖書の内容も大きく改変され,ローマの怒りを買わない,当たりさわりのない内容となった。

    また,アレクサンドリアにいたユダヤ人たちの中には,かつて正統派だった祭司関連職もいたが,彼らは大祭司の正統性をめぐる争いが起きた時,それに負け,追放されてアレキサンドリアで生活していた。追放された地で彼らは独自の崇拝をつづけていたが,悶々と時がたつうちに,彼らの中で「終わりの時」,自分たちを陥れた悪者を裁く「終末」がきっとくる,という発想に至り,その発想が七十人訳の訳し方に影響を与えた。

    その改変された七十人訳が,新約聖書(ギリシャ語聖書)のベースとなってしまったので,もはや純粋性は失われたのである。
  3. 聖書はもともとはおおらかで一字一句ミスのないようなものではなかった

    古代ユダヤ人の間では,聖書や伝承というのは非常におおらかなものであった。彼らは一字一句ミスのない写本などを作ったりはせず,各地にさまざまにアレンジされた写本が残され,言い伝えられ,それはまさに,日本昔話と同じような形で“守られ”てきたにすぎない。

    ローマ時代のユダヤ人,ヨセフス(歴史家)自身,創世記の物語を自分なりにアレンジしてローマ人に広めている。一字一句ミスがない,という考え方は後代もちこまれたものである。

    だとすれば,聖書の「その時」とか「に」,「を」という字句をつかまえて,終わりがいついつだ,と断言することはできないのである。
  4. イエスという男性は,田舎地方の知恵袋のような人物にすぎなかったという説

    イエス・キリストとはだれなのか,という議論はよく行なわれている。(たとえばこちらの番組をクリック)日本にも,よく近所に道徳的に立派なことを教える翁が登場することがあるが,イエスという男性もそういう人だったのではないかという見方もある。立派な論客について,弟子たちがあとからその語録を脚色し,事実以上の人間に祭り上げられることさえある。そうした可能性について前述の「乗っ取られた聖書」でも述べられている。
これらは,熱をさまして落ち着いて聖書を眺められるようになるための入口の情報にすぎない。超古代の賢人たちは,原始生活に戻った人類が狂信的になることは望んでいなかったはずだ。

選択的な滅びなどは来ないし,地球の終わりは来ない。2014年もいつもと同じようにお正月を迎え,家族と過ごし,仕事をし,人生を送るのである。2020年も2050年も2100年も,いつもと同じようにお正月を迎え,仕事をし,人生を送るのだ。それが現実であり,私もあなたもそういう未来になることを「預言」できる。

聖書にこういう言葉がある「もし預言者が主の名において預言したとしても,それが実現しないでそうならなければ,それは主が話されなかった預言なのであるその預言者は僭越である。あなたはその者に恐れる必要はない」(申命記18:22)

終わりに気をもむよりも,人類社会の進歩に貢献して発展に寄与するのが,超古代神の意図するところである。特に若い人たちには,温かいふつうの家族を持ち,生産的な人生を送っていただきたい。


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