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2013年6月30日日曜日

想像される超古代文明の滅び... これこそ人類の真実かもしれない

たとえば今から4億年前,地上にいた人類が科学技術の発展の極みにいたと仮定しよう。

これは超古代から現代につづく歴史のあらすじである。

科学は100年たらずで猛烈に進歩できる。

超古代文明の人類は当時,まさに数万年をかけて,自由に宇宙を移動できるまでに発展したばかりか,自分の肉体をさえダークマター(暗黒物質)に素粒子レベルで置き換える装置さえ作り出し,我々から見ればまさに霊者のような存在になって永遠の命を獲得する者も出始めていた。

別の者たちは死にゆく肉体の命で満足していたが,決してまじめではなかった。生きている間の命を満喫しようとして,遺伝子の操作をほしいままにし,自らの子孫を巨大化させたり,他の動物たちを巨大化させたりして自然界をいたずらに変質させていった。

そしていつしか,それらダークマター系の“人類”と肉体系の“人類”が激しく対立するようになった。ダークマター系は肉体系に対し,「お前たちは母なる物質地球を破壊している。元に戻さなければ我々が黙っていないぞ」と警告した。それに対して肉体系は「何を言うか! もはやお前たちは目にも見えず物も食わない透明人間になったのだ。お前たちは地上でなくても,宇宙空間でも自由に生きられるではないか。物質界のことをとやかく言うな!」

こうしてダークマター系と肉体系の戦争が起こった。ダークマター系は物理法則にとらわれない量子力学上の英知を駆使して肉体系を攻撃していった。肉体系は遺伝子操作でまさに龍そのものとなった動物たちと共にダークマター系と戦ったが優勢になれず,とうとう自らの滅びを選んだ。肉体系は核爆発を上回る破壊力で地を破滅させた。彼らは刹那主義者であったのだ。

ただ,いつの時代も戦いを冷やかに見ている者たちがいるものだ。

ダークマター系の中にも,肉体系の中にも,このままでは母なる地球と生命が根絶やしになることを心底恐れ,これではいけないと行動を起こした者たちがいたのである。

彼らは地球が破滅する直前,お互いに協力して,破滅を生き残られるよう特別で巨大な箱型のラボをひそかに作っておいた。そしてそこに収集し尽した動植物の遺伝子バンクとともに数人の技術者の男女を搭乗させておいたのだ。

超古代文明の爆発的終焉は,我々の想像をはるかに上回る規模で破壊しつくされ,海を除いて地表はまさに火星のような状態になってしまった。その上その後,何万年ものあいだ地球は氷河に覆い尽くされ,地球は木星の衛星エウロパのようになってしまった。

生き残ったわずかな人類が,ラボとラボの周りの岩盤内の数kmでしか活動できない日数が何十日何十夜,いや,何万年も経過し,その間に,物質の肉体をつけることに意味を感じなくなった子孫が幾人も,ラボ内の変換装置でダークマターへと姿を変えていった。その数は14万数千人となった。

人類は,2000年ものあいだ発芽を許されなかった大賀ハスのように長大な時間,ラボ周辺に閉じ込められてきたが,とうとう,地表に出られる日がやってきた。

はじめての地表は砂漠である。光はあったが,不毛の大地といっても過言ではなかった。

ラボで脈々と受け継がれてきた人類の英知がようやく,地球の復興のために用いられることになった。

彼らはまず,もとの豊かな地球を復元するためにエリアを決め,今のユーフラテス川あたりの区画で動植物の遺伝子を解凍し,復活させることにした。そしてその場所の名を「エデン」と呼んだ...

こうして復興の礎を築いた後,ラボは破壊されることになった。もう二度と,過去の過ちを繰り返さないためにと。しかしラボの破壊は,その後の人類に多大なる辛抱を求めるものとなった。

エデンでの復興事業は順調であったが,まさに魔法の宮殿ともいえたラボが破壊されてからは,ごく小さな問題やいさかいでさえ,解決するのが難しくなった。食料や燃料,怪我や病気にしても,ラボを活用できないために解決できないのだ。ラボがなくなるとこれほどまでに苦しい生活を強いられるようになることは,科学技術漬けの文明にいたラボの子孫たちには想像もできなかったのだ。

ラボからダークマター化して空間に住むようになっていた者たちにも問題がないわけではなかった。彼らは復興されゆく園を見て,ダークマター化したことを悔やむようになった。園の美しい女性を見て好意を抱く者さえ現れた...


時が流れ,徐々に統率が失われてゆき,地表の人類の子孫は各地で原始生活さながらの毎日を過ごすようになった。

このままではいけない,そう思ったのは主にダークマター系の“人類”であった。彼らはあらたに歩みだした人類に「啓示」を与え,彼らが道を外さないよう,そしてふたたび人類が発展を遂げられるよう,最低限の道徳規範を示そうとした。それは園の周辺に限らず,当時増え広がっていった,今のエジプト,南米などに規範拠点を設けることにした。今日それらの地域に,それらの拠点の名残がその地域の宗教として,また,遺跡として残っている。

超古代人類の生き残りダークマターたちは,今の人類が順調に発展している以上は介入の必要を感じない。いや,彼らはむしろ再び肉体系の人類と対立することを恐れている。彼らは人類が発展を遂げて,素粒子レベルでの変換装置をふたたび開発できるようになるまでは,静かに黙って空間を生きているのである。

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(注: この物語は私が考えたフィクションだが,書いている間,まるで“霊感を受けているかのように”筆が進んだのは私自身,興味深い経験になった。

神とはすなわち,方程式の「X」である

神が,いるか,いないか,という議論はあまり意味がないと考える。

私の考えでは,神がいるとすればそれはだれかが神を騙(かた)っているにすぎないはずだ。

ただ,私は,人間には「神」が必要,いや,人類の成長には必要だったと考える。

個人のレベルでも,人類社会のレベルでも,「神」をおいたほうが円滑かつ筋道立てて問題を解決できるからだ。「X」をおいて計算したほうが円滑かつ筋道立てて問題を解決できる方程式のようなものなのだ。

人類は長い進歩の末に,「X」をおいて物事を考える方法をあみだしたのだ。

王の主権が正当であることをどのように知らしめるか,民が犯罪を犯した場合に王が処罰を当たるのが正当なのはなぜか,戦いをしかけ,相手の命すら奪ってしまう戦争の正当性をどのように説明するか,これらは神という「X」なしでは説得力に欠ける。

本能で形成される蜂や蟻の社会と異なり,人間が社会を認識するためには理屈がいる。自分がどこに属し,自分がすべきこと,してはいけないこと,期待されていることをだれがどのように管理するしくみになっているのか,理屈で理解できなければ共通認識としての社会は形成されにくい。「神」はまさに社会の中心にすえられてきたのだ。

いやむしろ,人類は社会を形成しその中心に共通認識としての「神」をすえるという本能をもっているのかもしれない。

しかし時たつうちにそれが変質する。社会と共存してきた「神」は,一人歩きをはじめたのだ。

声を発することも動くこともできなかった「神」はどのようにして動けるようになったのだろうか。それは儀式を執り行う,「神」の間近にいた神官・祭司たちによる「神」の私物化によってである。

彼らは,「神」という概念的存在に人格を与え,好みを与え,言葉を与えると,国民全体だけでなく王でさえ従わなければならなくなることに気づいた。まさに自分たちが国を支配できる,というチャンスを得たのだ...

こうして,神官・祭司たちは王の辛抱の限界ギリギリまで,国民の辛抱の限界ギリギリまで「神」の名において服従を要求し,権力をほしいままにできたのである。彼らは数限りないルールを取り決め,従うべき行動規範を定めて人々を圧迫した。

円滑かつ筋道立てて問題を解決するための人類の知恵であったはずの「神」はこのようにして,今度は逆に人間を枠にはめ,束縛し,隷従させる存在へと変質したのである。

つまり,人格を持ち,目的を持つ「神」という概念こそ,ゆきすぎた方程式なのである。

他の数値から導き出すはずの「X」が,いつしか,「X」であることをやめ,他の数値を勝手に変えて,好みの解を導き出してしまう暴君へと変質し,数値を変えられた人間はもう二度と,方程式を自分で解くことはできなくなるのである。

私は,人間が,蜂や蟻以下になっては意味がないと思う。人類の本能的知恵を逆手に取ったトリック,いやトラップには用心すべきだ。

本当に考えや人格や目的を持つ神がいるとするならば,それは,このブログでいうところの「超古代神」のことであり,彼は全能の神などではない。滅亡した超古代文明を生き残った人間であり,原始生活に戻ってしまった人類の発展を願って,最低限の行動規範を伝え残したにすぎない存在である,と考えればよいのである。

終わりの時(ハルマゲドン)は来るか?

聖書を長年調べてきた者として,「終わりの時」「ハルマゲドン」が来るのかについては非常に関心を向けてきた。

終末思想に立つ“クリスチャン”からすれば,終わりの時は確実に来るものとして待望されている。

筆者はそうした信仰を尊重するが,そうした待望を絶対的なものと盲信し,自分の人生,未来,家族を捨てて,不幸に至ってしまう人を見過ごすわけにはいかない。

待望する生き方に疑問がない人はそれでよいが,いまいちど,立ち止まって確かめたい人には,これから述べることを参考にしてもらいたい。

  1. ギリシャ語聖書と言われているマタイから黙示録までの記録に信憑性はない

    昨今の考古学研究により,マタイによる福音書から黙示録(啓示の書)までの記録には,その信憑性がないか,あるいは非常に疑義があることがわかってきた。

    福音書はそれぞれ,マタイ,ルカ,ヨハネ自身がそれぞれ自筆で書いたものと考えている人は多いが,そうではない。実際に書いたのは,キリスト教勢力の拡大をねらった,後代の者たちである。新約聖書に何を含めるかは,後代の初期キリスト教会が勝手に決めたものであり,彼らは自分たちに都合の悪い内容の“福音書”を抹殺し,人気があって教会統治に役立つ“福音書”を正典に採用した。

    これらの,ごく最近の研究結果については,ディスカバリーチャンネルやナショジオの放送が「失われた福音書」として詳細に放映している。(リンクはこちらをクリック


  2. 終末思想そのものは,聖書のもともとの考え方ではなく,追放された大祭司たちが異国の地で悶々としていたときに編み出された考え方である

    これは京都大学出版会の「乗っ取られた聖書」という研究書が論じていることであるが(【楽天ブックスならいつでも送料無料】乗っ取られた聖書 [ 秦剛平 ]),ローマ支配の時代に,帝国はイスラエルの歴史を報告するよう,ユダヤ人に頼んだ。ユダヤ人は喜んで自分たちのヘブライ語聖書(旧約聖書)を翻訳してローマに献上した。それが有名な「七十人訳」(セプトゥアギンタ訳)である。本当は72人だったようだが,それはともかく,翻訳者たちはある問題に頭を抱えていた。

    それは,ローマが,ユダヤ教だけでなく,他国の他の宗教指導者たちにも自分たちの教えと歴史を献上するよう求めていたからだ。他国の宗教は平気で自分たちのルーツを数万年前と表現していたことから,ユダヤ人も負けじと,創世記の冒頭部分を改変し,自分たちの歴史の古さを相当年数水増ししたりした。

    改変はそれにとどまらず,ヘブライ語聖書の内容も大きく改変され,ローマの怒りを買わない,当たりさわりのない内容となった。

    また,アレクサンドリアにいたユダヤ人たちの中には,かつて正統派だった祭司関連職もいたが,彼らは大祭司の正統性をめぐる争いが起きた時,それに負け,追放されてアレキサンドリアで生活していた。追放された地で彼らは独自の崇拝をつづけていたが,悶々と時がたつうちに,彼らの中で「終わりの時」,自分たちを陥れた悪者を裁く「終末」がきっとくる,という発想に至り,その発想が七十人訳の訳し方に影響を与えた。

    その改変された七十人訳が,新約聖書(ギリシャ語聖書)のベースとなってしまったので,もはや純粋性は失われたのである。
  3. 聖書はもともとはおおらかで一字一句ミスのないようなものではなかった

    古代ユダヤ人の間では,聖書や伝承というのは非常におおらかなものであった。彼らは一字一句ミスのない写本などを作ったりはせず,各地にさまざまにアレンジされた写本が残され,言い伝えられ,それはまさに,日本昔話と同じような形で“守られ”てきたにすぎない。

    ローマ時代のユダヤ人,ヨセフス(歴史家)自身,創世記の物語を自分なりにアレンジしてローマ人に広めている。一字一句ミスがない,という考え方は後代もちこまれたものである。

    だとすれば,聖書の「その時」とか「に」,「を」という字句をつかまえて,終わりがいついつだ,と断言することはできないのである。
  4. イエスという男性は,田舎地方の知恵袋のような人物にすぎなかったという説

    イエス・キリストとはだれなのか,という議論はよく行なわれている。(たとえばこちらの番組をクリック)日本にも,よく近所に道徳的に立派なことを教える翁が登場することがあるが,イエスという男性もそういう人だったのではないかという見方もある。立派な論客について,弟子たちがあとからその語録を脚色し,事実以上の人間に祭り上げられることさえある。そうした可能性について前述の「乗っ取られた聖書」でも述べられている。
これらは,熱をさまして落ち着いて聖書を眺められるようになるための入口の情報にすぎない。超古代の賢人たちは,原始生活に戻った人類が狂信的になることは望んでいなかったはずだ。

選択的な滅びなどは来ないし,地球の終わりは来ない。2014年もいつもと同じようにお正月を迎え,家族と過ごし,仕事をし,人生を送るのである。2020年も2050年も2100年も,いつもと同じようにお正月を迎え,仕事をし,人生を送るのだ。それが現実であり,私もあなたもそういう未来になることを「預言」できる。

聖書にこういう言葉がある「もし預言者が主の名において預言したとしても,それが実現しないでそうならなければ,それは主が話されなかった預言なのであるその預言者は僭越である。あなたはその者に恐れる必要はない」(申命記18:22)

終わりに気をもむよりも,人類社会の進歩に貢献して発展に寄与するのが,超古代神の意図するところである。特に若い人たちには,温かいふつうの家族を持ち,生産的な人生を送っていただきたい。


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優しい愛の“神”と古代の“楽園”は存在するか?

聖書の解釈のひとつに,アダムとエバが神に反逆する以前の地球は,神のやさしい愛に包まれた,騒乱のない文字通りの楽園だった,というものがある。

しかしこれは事実ではない。

上の写真は,1200万年前の動物たちの化石である。アメリカで発見された,「化石のベッド」と呼ばれるもので,ラクダやサイ,カメなど多数の動物たちが,火山灰を多量に吸って死滅したことが判明している。

誤解しないように付け加えると,これらの死骸はいわゆる“大洪水”の証拠ではない。わずか数千年前の地層ではなく,はるかかなた昔の火山灰層からの発見だ。(スミソニアン博物館リンク:アシュフォールの化石のベッド

化石の中には生まれたばかりのサイの赤ちゃんも含まれている。

これらの動物たちは災害に苦しみもがき,寿命をすらまっとうできないで死んでいったのである。
 
理想郷のような楽園があって,動物たちがみな草をはんで平和に寿命を全うしていた時代など,空想に過ぎない。災害の影響は有史以前からあり,生まれたてであろうが老いていようが,動物たちは生存競争を生き抜いてきたのだ。証拠はそう物語っている。
 
優しい愛情という感情を持っているのは人間だけである。
 
聖書のエデンの園は,人類がいつの日か,強力な科学技術を身にまとい,自分たちだけでなく動物たちをも守れるやさしい地球を実現してほしいという,超古代の科学者たちの単なる願望だったのかもしれない。
 
 

2013年6月29日土曜日

ロシアで見つかった4億年前の「機械の化石」が意味するもの


人類の歴史はせいぜい6000年くらいだという人たちがいる。

しかし,事実はそうではない。

上の写真はロシアでみつかった,4億年前の「機械の化石」とされている。4億年前にすでに,高度に発達した機械文明が栄えていたことがうかがえる。

次に下の写真をご覧いただきたい。
これは,与那国島沖で見つかった「海底遺跡」とされるものだ。

現在の日本の陸地が形成されるはるか昔に,人工的な都市が形成されていた可能性を物語る遺物である。

考えてみると,地球の表面は,下の図のように,年に数センチずつ,可動式ステージのように移動し,最終的には火の燃えさかるマントルで滅んでしまう。
つまりは,桃色で示すように,文明があらわれても,演劇の回転式ステージのように最終的には地底にもぐりこみ,諸要素がことごとく溶解してゆくのである。

このブログで「超古代」という表現を使っているのは,注目しようとしているのが,まさにもぐりこんで消えてしまった文明について考えてみたいからだ。エジプト文明にしてもメソポタミヤ文明にしても,現存するプレート上での過去のできごとであり,それを古代文明と人は呼ぶ。それが古代ならば,もぐりこんで消えてしまった文明は,超古代,ということになる。

最初に紹介した機械の化石は,地殻の隆起によってマントル溶解をまぬがれたりした超古代文明の遺物ではないか。



このブログで伝えたいことは...
人間の科学技術の進歩はたかだか100年ちょっとあれば飛躍的に進歩できる。電気や電波,航空・軍事技術の進歩は歴史のなかにあってあっという間だ。

それゆえ,何万,何十万年前に高度に進歩した文明があっても不思議はない。このブログでは,その滅びていった文明,超古代文明について考えたい。

そして我々は,まさにその滅びた文明を生き残った子孫だと考える。我々はその先代の超古代文明がまさに滅びようとしていた時,先代の“知識人”,“科学者”から多くの知識をさずかった可能性がある。先代の人類は,人類が命からがら生き残ることを願い,そして,生き残ったあと,ふたたび健全な文明を発展させていくことを願い,我々の心の奥底に,まさに現在宗教として知られる部分に,多くの知恵と導きを与えようとした痕跡がうかがえる。

たとえば聖書には,超古代文明時代に,二大勢力が血みどろの争いをしていた痕跡がうかがえる。また,核汚染か全地球的な汚染を洪水にたとえ,それを生き残れるよう,動物・人間の遺伝子を保護したラボがあったことを「箱舟」という詩的な表現で説明しているように思える。

また聖書は,人類が無駄に滅亡しないよう,最低限の道徳基準や統治のしくみを教え,すこやかに人口を増やし,技術を発達させられるよう,願いを込めて書かれているように見受けられる。

先代文明の知識人たちは,原始生活に戻ってしまった子孫の心に知恵を植え付けるために,自分たちのことを「神」と表現し,ふたたび滅亡に至らないようくさびを打ち込んだのだ。

さらに,古代エジプト文明やマヤ文明にみられる建築・天文技術にも,高度な知見をもった先代文明の痕跡がうかがえる。

このブログでは,ときに道草を食って息抜きもしながら,上のようなテーマについて気の向くままに書いていきたい。