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2015年3月29日日曜日

恐竜の胃から恐竜の尾が見つかる―古代に「地上の楽園」は存在しなかったことが判明

NHKラジオを聞いていたところ,大阪市立自然史博物館で現在公開中の「特別展―スペイン奇跡の恐竜たち」で,驚愕の大発見が見られることがわかった。それは,化石となった恐竜の胃の中から,食べられた恐竜の尾が見つかった,というものだ。

これまで,古代の動物が肉食であったことを示す化石証拠は非常に少なかったようであるが,今回のこの発見は非常に貴重だ。今までは骨格や歯の構造から,特定の動物が肉食であったとの“想像”がなされてきたわけであるが,胃の中から被食動物の尾が見つかったとなれば,それは正真正銘の「肉食」の痕跡となるのである。

本ブログでは過去に「優しい愛の“神”と古代の“楽園”は存在するか?」という記事で,古代の動物たちが全部草食であったという見解がウソであることを暴露したが,今回の情報はそれをもっとはっきりさせているので,お近くの方はぜひ大阪市立自然史博物館を訪ねてもらいたい。


化石というのは長大な年月が経たなければ生成されない。その動物の骨の成分が,土壌中の石の成分に全部置き換わるほどの,何万年,何十万年という年月を要するのである。今回展示されているコンカベナトールの化石も白亜紀前期の地層から見つかっており,当然人間の有史以前のものである。

やはり,動物界は古代から一貫して弱肉強食であり,地球は何度も災害に見舞われ,動物たちは病気やさまざまなアクシデントに見舞われてきたことが読み取れる。天寿を全うせずに“神に見放された”弱小の動物たち。まだ胃の中に食べ物が残った状態なのに消化する余裕もないまま土に埋まるなどして死んでいった恐竜がいたのである。

「将来,あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」,「神さまは大昔にあった地上の楽園を取り戻されるのです」という甘言はこのように,歴史的事実を全く直視していない妄想なのである。

そのような解釈をするよりも,本ブログで再三指摘しているように,超古代にじっさいに何が起こっていたのか,そして超古代文明がどのような痕跡を残し,我々にどんな科学的メッセージを残そうとしていたのか検証するほうが有益なのである。

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2015年3月22日日曜日

1万7千年前に先進文明があったということは...

考古学は非常におもしろい。近年発見されている多くの古代遺跡に関する情報から,我々は今までの概念をひっくり返さなければならない,と感じさせられる。 その代表的な遺跡のひとつが南米ボリビアにある,プマプンク遺跡だ。


他の遺跡とくらべて圧巻の特徴は,石材の究極の加工技術にある。


特に硬い花崗岩質のこれらの岩石を,寸分たがわず直角に加工しているのは驚異だ。現代の先進技術者がレーザーやダイヤモンドカッターの技術を用いてもこれほどの精度は得られないという。


しかも,上の写真のように,穴を貫通させたり,小さな(5mmほどと思われる)穴を一定間隔で正確に開けたりと,電動工具無しではありえないような加工がみられるのである。 

しかしながら,我々がもっとも驚愕するのは,4000mの高地にあるこの遺跡ができた年代である。考古学者のアーサー・ポスナンスキー(Arthur Posnansky)によれば,この遺跡はなんと今から1万7000年前に興ったとされているのだ。このことは非常に興味深いし,それ以降の“有史”に与えた影響を考えると歴史観が大きく変わるのではないだろうか。

  1万7千年前に先進文明があったならば
1万7000年前といえば,「後期旧石器時代」とされており,当然“有史”以前である。聖書のアダムとイブの物語よりもはるかに昔と言える。そのような時代に,現代の我々でもマネのできないような加工技術を持った先進文明があったということは何を意味するのだろうか。 

先進文明があったということはすなわち,高度な意思伝達能力を持ち,都市計画,物流,経済システムを持っていたと考えられるわけであり,そこに住んだ人々は高度な精神性を有していたことがうかがえるのではないだろうか。 

それらの人々は一度に滅んだのだろうか。それらの人々が散り散りとなり,プマプンクの文化が地のあちこちに散らばった可能性はないのだろうか。 いずれにしても,聖書が記されるはるか前に,こうした超先進文明があったならば,それよりはるかのちに記された聖書中に一定の科学的合理的記述がみられても不思議はない。

むしろ,聖書の成立そのものに,超古代文明の考え方や願い,希望が託された可能性まで想像させられる。 聖書の神に限らず,“神”とあがめられる古代社会の絶対的な存在というものは,もしかしたら超古代社会の先進社会からの遺産なのではないかと思えてくる。

聖書をはじめとする古代の記録に超古代文明人がかかわっていたとしたら,彼らはどんな意図で後世の人類にメッセージを残そうとしたのだろうか。文明はいずれ滅びる(彼らの文明は実際に滅びたのだから)という一種の終末思想を,自分たちが得た教訓や後悔と共に,悲劇が二度と繰り返されないようにと願って後世を教育しようとしたのだろうか...。

 要するに,“有史”というものを当然のものと思わずもういちど,古代から超古代まで,歴史的事実を確かめる必要があるのである。


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偽りの宗教を見分ける6つの要素

昨今,「ハルマゲドン」や「終末思想」で一般社会に破壊的な影響をあたえた宗教のその後についての報道が多い。それらの報道の中では,偽りの宗教を見分けるためのいくつかの要素に言及されている。まとめると次のようになる。

偽りの宗教を見分ける方法
◆【1】信者を休ませない
信者に休日をとらせないばかりか,昼夜を問わず宗教活動に没頭させる。これにより,信者の脳を徹底的に疲労させ,正常な判断能力を発揮できないようにし,マインドコントロールする。

◆【2】信者の経済力を奪う
信者から経済力を奪うことができれば,奪われた信者がまず節約するのは食費である。切り詰めた生活では往々にして,果物や肉などを口にできなくなり,ビタミンや鉄分などが欠乏する。栄養不足に至った脳は前述【1】と同じように正常な判断能力を発揮できなくなる。

◆【3】信者に教育を受けさせない
生活に必要な情報は教団から得られると主張し,一般教育を推奨しない。特に大学教育では,人の持つ数々の権利や自由について学んだり,それを実現するための法学,経済学を学ぶため,教団側から見ればリスクとなる。

◆【4】信者を家族から隔離する
物理的な隔離だけでなく,精神的にも家族から隔離させ,家族を敵か無知で可哀想な存在に陥れる。気づかぬうちに信者に孤独を強いることとなり,いっそう教団への帰依を強める結果となる。

◆【5】信者自身の感情・意思は無価値とされる
信者自身が持つ感覚や感情は稚拙なものとされ,教団の意思こそが意思とされる。これにより,非信者の家族がいくら情感や愛情をこめて引き戻そうとしても,信者はそうした“感情”には影響されなくなる。

◆【6】信者に緊急感・使命感をあおる
前述【1】から【5】を信者に肯定させるために,今やっていることが間違っていないことを確信させる要素が緊急感や使命感だ。今こそ活動すべき時であり,その先には安らぎが待っている,だからもう少し頑張ろう,そう言い聞かせて,最終的に一生を終えるのみなのである。

頭脳が正常なうちに,正常な判断能力を示したいものだ。


以下<宣伝>....記事とは無関係です。