「もし預言者が主の名において預言したとしても,それが実現しないでそうならなければ,それは主が話されなかった預言なのである。その預言者は僭越である。あなたはその者に恐れる必要はない」(申命記18:22)
以前の記事でこの章句に言及した。くわしく分析・洞察してみよう。
【1】聖書は,読者自身が真偽を見極めるように教えている
ある予言が信じるに足るものかを,人間各人がそれぞれ判断してもよいのだろうか。自分で判断するのはせんえつなことなのだろうか。
まったくそのようなことはない。むしろその逆で,この章句は人が自分で予言の真偽を判断できることを示している。
【2】予言を一部間違うだけでも「その預言者は僭越」とされている
予言が外れた時,偽の予言者はよく,「当時の理解が浅かった」とか「はやる気持ちがそうさせた」という。そして「その後は身を引き締めて慎重に予言している」という態度をとる。
しかし,申命記はそういう甘い考えを完全否定している。わざわざ「その預言者は僭越である」と宣告を付け加えているのだ。
前段の,「それが実現しないでそうならなければ,それは主が話されなかった預言なのである」で終わっていれば,一部まちがい,一部正解という予言者の存在が肯定される余地がある。しかし聖書はわざわざ「その預言者は僭越である」と付け加えることで,「一部まちがい」の予言者が死に値することを明言している。(注:聖書中で神に対してせんえつな者は死に値する者とされている。)
よって,「一部まちがい」がある“予言者”はせんえつなるニセモノであるから,ただちに離れなければならない。聖書は連帯責任の考え方なので,偽予言者を支持しつづければ,その者も僭越なものとして代々神にのろわれる。
【3】実現しない予言が人の心を病ませることを,聖書はよく知っている
聖書は別のところで,「期待が延期されると心が病む」と述べている。そのことをよく知っているのでこの申命記の章句の中でもやさしく「あなたはその者に恐れる必要はない」と神ご自身の恩寵をいただいているのである。
くり返すが,神はあなたに「あなたはその者に恐れる必要はない」と言っておられる。
これは,こわがる必要はないということはもちろん,従う必要も忠誠心をささげる必要もない,ということを意味している。ヘブライ語の「恐れる」は日本語に訳しにくいが,日本語の「こわい」という意味よりもはるかに大きな枠組みで「恐れる必要はない」と言ってくださっているのである。
このやさしい表現からは次のことも分析される。つまり神は,「いちどはその偽予言者を信じていたとしても,自分でそれがニセモノだと判断でき,その者から離れたのであれば,私はあなたに責任を求めることはない」と言っておられるのだ。「恐れる必要はない」と言っておきながらその者を滅ぼすとすれば矛盾だからだ。
ところで,そもそも「世の終わり」とは何なのだろうか。
それが何かは,キリストが雲に乗って来られるときに明らかになると新約聖書で教えられている。「世の終わり」がなにかを知りたい人は,キリストが雲に乗って来られるまで待っていればよいのである。
それまでは,世が明日にでも滅びるかのような,偽の予言に従った生活をするのではなく,神が与えたもうた生(Life: つまり「命」「生活」「日常」を含む)を豊かに喜び,生の歓喜を神への感謝にして創造主である神が,創ってよかったと思っていただけるように繁栄する生き方をするのである。
そして必要な時代がくれば,1世紀のようにキリストが現れて人を導いてくれるのだから,安心していればよいのである。
「偽の予言者を恐れる必要はない」,それが神の教えである。