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2016年9月12日月曜日

人生の意味とは? ― シンプルな答え

「人生の目的とは何でしょうか?」と尋ねられた瞬間,ある意味,人は二通りの種類に分けられてしまう,ということにお気づきだろうか。

ある一群は,「ん? 人生の意味? なんだろうか? 答えがあるなら教えてもらいたい」という気持ちになってしまう。そこで質問者から間髪入れず,「歴史上,もっとも信頼されてきたこの経典によれば...」と“権威”らしいものをつきつけられ,「ふむふむ,何て書いてあるのだろう。知るだけならいいだろう...」と,インストールを許可してしまうのである。そして,その“権威”が示す“人生の目的・生きる意味”に支配されるようになり,心身共に奴隷が完成してゆく。 

別の一群はどうだろうか?

 その前に,この記事のタイトルの答えを先に述べてしまおう。

人生の意味について,アドラーはシンプルにこう答えている。“人生に意味などない。人は意味のために生きるのではない”と。

 洗脳されやすい,最初の一群のタイプの脳にとって,この格言は意外に感じられるにちがいない。人生という壮大な行程は「意味」や「目的」に沿って進むものではない,「意味」や「目的」という言葉・概念をもってしても方向付けられないほど,人生というものは壮大で重いものだ,という真理が提示されているのだ。

 ところでなぜ,人は「人生の目的や意味」に関心があるのだろうか。

これもよくよくその心理を分析すると,その多くは,本当に人生の意味を探求したいというわけではなく,“自由とは何か”という人間の本質的な問いの単なる裏返しに過ぎない場合が少なくない。

 つまり,何千年にもわたってつづいてきた封建的・支配的時代が終わって,ここ数十年でようやくたどりついた自由主義社会(それが本当に自由かどうかは別として...)にいきなり放り出された人類にとって,それにすぐに適応できる人もいれば,「自由? いやいや,そんなものよくわからないから,自分がどうすればいいか,何をやればいいか,だれかが指導して(支配して)くれれば楽なのに...」という自発的自由放棄というか,自由もてあまし組とも言える一群が相当数発生してしまったのである。

封建的・支配的時代においては,住むところ,仕事,結婚相手までだれかに決められたり制限されたりしてきた。当然,それに対する反発やいらだち,悲しみが生じただろう。それらの経験から,改革意識に燃えた人が人間の本質的な欲求である「自由」という概念に気づき,自由を獲得しようと命がけの努力を重ねてきたのもまた事実だ。

 ところが,いざ自由がもたらされ,まさに自由主義社会ともいえる時代が訪れると,はて? と立ち止まる人たちが現れた。住むところも自由,なにを楽しんでも自由,だれと結婚しても自由,なにを信仰しても自由だし,どんな政治活動や表現活動をしても自由,なにを聞いても自由だし,なにを学んでも自由,どうぞ自由をお楽しみください!... と言われると,その“自由”があまりにもひろすぎる概念でありすぎて,何をしていいかわからなくなるのだ。“この自由をどう活用したらいいのか教えてほしい,何を信じ,だれを友にして,何をしたらいいのか,指導してほしい”という欲求はそこから来るのだ。

 では,別の一群,すなわち,自分が虫かごから大草原に放たれて自由になったことを認識できるタイプの人にとって「人生の目的とは何でしょうか?」との問いはなんらかの影響を与えるものなのだろうか。彼らは大草原をくまなく全部知り得た虫などいないことをよく知っている。“答えを持っている”と称する虫がいたとしても,しょせんは池のほとりの群生地の範囲内だけはくまなく知り得た虫が「ここでこう生きるのが最善だよ」と教え得る程度のものだとわかっているのだ。

 だから,たまたまそこが良さげであればそこに居を定めるかもしれないが,そうでなければ,彼らはまた,大草原の探検をつづけるのだ。大いなる自由に抱かれながら...

アドラーもその一人であったに違いない。彼は,この壮大な自由を常に認識しつつ生きることの益について我々に気づかせ,ふたたび封建社会に戻ることなく,自由を大いに活用して人生を歩むことの普遍性を教えている。そのことがひとりひとりにとって納得のいく答えに至る行程であり,のちに「人生を返せ」と人を責めなくてもよい生き方であると説いているのだ。


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2015年4月9日木曜日

36,000年前のポンダルク洞窟壁画,25日から複製公開



NHKでも今しがた報道(2015年4月9日朝のニュース)されていたが,36,000年前に描かれたフランスの洞窟壁画「ショーヴェ・ポンダルク」が今月25日からフランスのヴァロン・ポンダルク(Vallon Pont d'Arc)に建設されるセンターで公開される。最新の3D技術を駆使して8000㎡というたいへん大きな洞窟を3000㎡のスペースに復元しての大々的なものだ。

この洞窟壁画の存在は1994年に地元の探検家によって発見されたもの。発見者はそこに描かれた躍動的な動物たちの姿に驚嘆したに違いない。






36,000年前というのは旧石器時代。このような奥深くの洞窟の中で,いったいどのように描かれたのかが大きな謎だ。

古代の人々は長時間壁面を照らし続けることのできる照明方法をあみだしていたのだろうか。

壁画の現物の保存状態は良い。36,000年前から洪水や他の浸食原因に影響されずに残存しており,まさに世界の遺産といえる。

ここに描かれた絵は現代の我々に何を教えているのだろうか。このゆるぎない「史実」を直視することで,古代についての正確な知識は我々にどう影響するのだろうか。

動物たちがどのように過ごしていたのか,動物同士闘っていたのか,何を食べていたのか,人とのかかわりは... 興味は尽きないのである。



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2015年3月29日日曜日

恐竜の胃から恐竜の尾が見つかる―古代に「地上の楽園」は存在しなかったことが判明

NHKラジオを聞いていたところ,大阪市立自然史博物館で現在公開中の「特別展―スペイン奇跡の恐竜たち」で,驚愕の大発見が見られることがわかった。それは,化石となった恐竜の胃の中から,食べられた恐竜の尾が見つかった,というものだ。

これまで,古代の動物が肉食であったことを示す化石証拠は非常に少なかったようであるが,今回のこの発見は非常に貴重だ。今までは骨格や歯の構造から,特定の動物が肉食であったとの“想像”がなされてきたわけであるが,胃の中から被食動物の尾が見つかったとなれば,それは正真正銘の「肉食」の痕跡となるのである。

本ブログでは過去に「優しい愛の“神”と古代の“楽園”は存在するか?」という記事で,古代の動物たちが全部草食であったという見解がウソであることを暴露したが,今回の情報はそれをもっとはっきりさせているので,お近くの方はぜひ大阪市立自然史博物館を訪ねてもらいたい。


化石というのは長大な年月が経たなければ生成されない。その動物の骨の成分が,土壌中の石の成分に全部置き換わるほどの,何万年,何十万年という年月を要するのである。今回展示されているコンカベナトールの化石も白亜紀前期の地層から見つかっており,当然人間の有史以前のものである。

やはり,動物界は古代から一貫して弱肉強食であり,地球は何度も災害に見舞われ,動物たちは病気やさまざまなアクシデントに見舞われてきたことが読み取れる。天寿を全うせずに“神に見放された”弱小の動物たち。まだ胃の中に食べ物が残った状態なのに消化する余裕もないまま土に埋まるなどして死んでいった恐竜がいたのである。

「将来,あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」,「神さまは大昔にあった地上の楽園を取り戻されるのです」という甘言はこのように,歴史的事実を全く直視していない妄想なのである。

そのような解釈をするよりも,本ブログで再三指摘しているように,超古代にじっさいに何が起こっていたのか,そして超古代文明がどのような痕跡を残し,我々にどんな科学的メッセージを残そうとしていたのか検証するほうが有益なのである。

関連記事:日本初公開! 6mの恐竜が長居に出現


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2015年3月22日日曜日

1万7千年前に先進文明があったということは...

考古学は非常におもしろい。近年発見されている多くの古代遺跡に関する情報から,我々は今までの概念をひっくり返さなければならない,と感じさせられる。 その代表的な遺跡のひとつが南米ボリビアにある,プマプンク遺跡だ。


他の遺跡とくらべて圧巻の特徴は,石材の究極の加工技術にある。


特に硬い花崗岩質のこれらの岩石を,寸分たがわず直角に加工しているのは驚異だ。現代の先進技術者がレーザーやダイヤモンドカッターの技術を用いてもこれほどの精度は得られないという。


しかも,上の写真のように,穴を貫通させたり,小さな(5mmほどと思われる)穴を一定間隔で正確に開けたりと,電動工具無しではありえないような加工がみられるのである。 

しかしながら,我々がもっとも驚愕するのは,4000mの高地にあるこの遺跡ができた年代である。考古学者のアーサー・ポスナンスキー(Arthur Posnansky)によれば,この遺跡はなんと今から1万7000年前に興ったとされているのだ。このことは非常に興味深いし,それ以降の“有史”に与えた影響を考えると歴史観が大きく変わるのではないだろうか。

  1万7千年前に先進文明があったならば
1万7000年前といえば,「後期旧石器時代」とされており,当然“有史”以前である。聖書のアダムとイブの物語よりもはるかに昔と言える。そのような時代に,現代の我々でもマネのできないような加工技術を持った先進文明があったということは何を意味するのだろうか。 

先進文明があったということはすなわち,高度な意思伝達能力を持ち,都市計画,物流,経済システムを持っていたと考えられるわけであり,そこに住んだ人々は高度な精神性を有していたことがうかがえるのではないだろうか。 

それらの人々は一度に滅んだのだろうか。それらの人々が散り散りとなり,プマプンクの文化が地のあちこちに散らばった可能性はないのだろうか。 いずれにしても,聖書が記されるはるか前に,こうした超先進文明があったならば,それよりはるかのちに記された聖書中に一定の科学的合理的記述がみられても不思議はない。

むしろ,聖書の成立そのものに,超古代文明の考え方や願い,希望が託された可能性まで想像させられる。 聖書の神に限らず,“神”とあがめられる古代社会の絶対的な存在というものは,もしかしたら超古代社会の先進社会からの遺産なのではないかと思えてくる。

聖書をはじめとする古代の記録に超古代文明人がかかわっていたとしたら,彼らはどんな意図で後世の人類にメッセージを残そうとしたのだろうか。文明はいずれ滅びる(彼らの文明は実際に滅びたのだから)という一種の終末思想を,自分たちが得た教訓や後悔と共に,悲劇が二度と繰り返されないようにと願って後世を教育しようとしたのだろうか...。

 要するに,“有史”というものを当然のものと思わずもういちど,古代から超古代まで,歴史的事実を確かめる必要があるのである。


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偽りの宗教を見分ける6つの要素

昨今,「ハルマゲドン」や「終末思想」で一般社会に破壊的な影響をあたえた宗教のその後についての報道が多い。それらの報道の中では,偽りの宗教を見分けるためのいくつかの要素に言及されている。まとめると次のようになる。

偽りの宗教を見分ける方法
◆【1】信者を休ませない
信者に休日をとらせないばかりか,昼夜を問わず宗教活動に没頭させる。これにより,信者の脳を徹底的に疲労させ,正常な判断能力を発揮できないようにし,マインドコントロールする。

◆【2】信者の経済力を奪う
信者から経済力を奪うことができれば,奪われた信者がまず節約するのは食費である。切り詰めた生活では往々にして,果物や肉などを口にできなくなり,ビタミンや鉄分などが欠乏する。栄養不足に至った脳は前述【1】と同じように正常な判断能力を発揮できなくなる。

◆【3】信者に教育を受けさせない
生活に必要な情報は教団から得られると主張し,一般教育を推奨しない。特に大学教育では,人の持つ数々の権利や自由について学んだり,それを実現するための法学,経済学を学ぶため,教団側から見ればリスクとなる。

◆【4】信者を家族から隔離する
物理的な隔離だけでなく,精神的にも家族から隔離させ,家族を敵か無知で可哀想な存在に陥れる。気づかぬうちに信者に孤独を強いることとなり,いっそう教団への帰依を強める結果となる。

◆【5】信者自身の感情・意思は無価値とされる
信者自身が持つ感覚や感情は稚拙なものとされ,教団の意思こそが意思とされる。これにより,非信者の家族がいくら情感や愛情をこめて引き戻そうとしても,信者はそうした“感情”には影響されなくなる。

◆【6】信者に緊急感・使命感をあおる
前述【1】から【5】を信者に肯定させるために,今やっていることが間違っていないことを確信させる要素が緊急感や使命感だ。今こそ活動すべき時であり,その先には安らぎが待っている,だからもう少し頑張ろう,そう言い聞かせて,最終的に一生を終えるのみなのである。

頭脳が正常なうちに,正常な判断能力を示したいものだ。


以下<宣伝>....記事とは無関係です。

2014年6月10日火曜日

聖書の申命記18:22は「世が終わる」という偽の予言から人をまもる

「もし預言者が主の名において預言したとしても,それが実現しないでそうならなければ,それは主が話されなかった預言なのである。その預言者は僭越である。あなたはその者に恐れる必要はない」(申命記18:22)

以前の記事でこの章句に言及した。くわしく分析・洞察してみよう。

【1】聖書は,読者自身が真偽を見極めるように教えている
ある予言が信じるに足るものかを,人間各人がそれぞれ判断してもよいのだろうか。自分で判断するのはせんえつなことなのだろうか。

まったくそのようなことはない。むしろその逆で,この章句は人が自分で予言の真偽を判断できることを示している。

【2】予言を一部間違うだけでも「その預言者は僭越」とされている
予言が外れた時,偽の予言者はよく,「当時の理解が浅かった」とか「はやる気持ちがそうさせた」という。そして「その後は身を引き締めて慎重に予言している」という態度をとる。

しかし,申命記はそういう甘い考えを完全否定している。わざわざ「その預言者は僭越である」と宣告を付け加えているのだ。

前段の,「それが実現しないでそうならなければ,それは主が話されなかった預言なのである」で終わっていれば,一部まちがい,一部正解という予言者の存在が肯定される余地がある。しかし聖書はわざわざ「その預言者は僭越である」と付け加えることで,「一部まちがい」の予言者が死に値することを明言している。(注:聖書中で神に対してせんえつな者は死に値する者とされている。)

よって,「一部まちがい」がある“予言者”はせんえつなるニセモノであるから,ただちに離れなければならない。聖書は連帯責任の考え方なので,偽予言者を支持しつづければ,その者も僭越なものとして代々神にのろわれる。

【3】実現しない予言が人の心を病ませることを,聖書はよく知っている
聖書は別のところで,「期待が延期されると心が病む」と述べている。そのことをよく知っているのでこの申命記の章句の中でもやさしく「あなたはその者に恐れる必要はない」と神ご自身の恩寵をいただいているのである。

くり返すが,神はあなたに「あなたはその者に恐れる必要はない」と言っておられる。

これは,こわがる必要はないということはもちろん,従う必要も忠誠心をささげる必要もない,ということを意味している。ヘブライ語の「恐れる」は日本語に訳しにくいが,日本語の「こわい」という意味よりもはるかに大きな枠組みで「恐れる必要はない」と言ってくださっているのである。

このやさしい表現からは次のことも分析される。つまり神は,「いちどはその偽予言者を信じていたとしても,自分でそれがニセモノだと判断でき,その者から離れたのであれば,私はあなたに責任を求めることはない」と言っておられるのだ。「恐れる必要はない」と言っておきながらその者を滅ぼすとすれば矛盾だからだ。


ところで,そもそも「世の終わり」とは何なのだろうか。

それが何かは,キリストが雲に乗って来られるときに明らかになると新約聖書で教えられている。「世の終わり」がなにかを知りたい人は,キリストが雲に乗って来られるまで待っていればよいのである。

それまでは,世が明日にでも滅びるかのような,偽の予言に従った生活をするのではなく,神が与えたもうた生(Life: つまり「命」「生活」「日常」を含む)を豊かに喜び,生の歓喜を神への感謝にして創造主である神が,創ってよかったと思っていただけるように繁栄する生き方をするのである。

そして必要な時代がくれば,1世紀のようにキリストが現れて人を導いてくれるのだから,安心していればよいのである。

「偽の予言者を恐れる必要はない」,それが神の教えである。

2013年10月12日土曜日

聖書を絶対視するのはすなわち,偶像崇拝をしているのと同じ...

以前の記事にも書いたが,聖書の原本テキストはもはや存在していないし,現存するテキスト(写本)はいずれも原本とはかなりかけはなれたものである。

じっさいにヘブライ語聖書テキストを探し歩いた学者たちがユダヤの地で肌で感じていることは,発見される写本ごとにその土地その土地の当時の風土が加味されている,という事実だ。

たしかに,コピーの技術がなかった古代ユダヤにおいて,テキストを正確に書き写すために様々な工夫がなされた時期があることも事実だ。しかしそれは原本が書き記されたあとのかなり後代になってからのことである。

原本に近い初期のころの写本は,まるで日本昔話が日本各地に伝播したときのように,物語の登場人物や背景に相当な加筆変更がなされていたのである。

現存する聖書本文を唯一絶対のものとするのは危険
そうした理由から,現在われわれが目にする聖書の本文を,唯一絶対のものとして一字一句信憑性を求めることは無理というものなのである。

最初に書かれた原本テキストにかえることはもはやできないのであり,原本が書かれて以降,政治的,民族的な理由で時の為政者に都合よく加筆変更された写本には,原本にはなかった強弁や誇張,欺瞞が紛れこんでいる可能性が強いのである。たとえば,その土地を治めていた権力者が,民を従わせるために,従順と畏怖,規範と懲罰の概念を書き加えた,あるいは誇張した可能性があるのだ。

そのようにして残された現在の聖書本文の一字一句をまさに神の言葉そのものだと考えるのは,無謀かつ非常識だ。現代のわれわれが見る聖書本文のある表現からわれわれの精神衛生が脅かされるとしたら,それは悲劇になりかねない。

ある行動をしてもよいのか悪いのか,ある思考を持ってもよいのか悪いのか,そうした人間の持つ基本的な自由や権利を,改ざんされた“神の言葉”によって支配させるのを許すとすれば,それは滋養剤であるはずの薬に農薬の説明書がつけられたために栄養失調になってしまうのと同じになってしまうのではないだろうか。

そもそも聖書そのものが,聖書を崇拝の対象とすることを非としている
ここで断っておきたいのは,私は聖書を敬い,それを神からの手紙のように感じることそのものを非とはしていない。あるいは,聖書がこれまで数千年にわたって篤信の人々から大切に扱われてきたために,彼らの生き方を尊重し,彼らのようになりたいと考えることをも非とはしていない。

それは,日本における神道の祝詞(のりと)が,その内容はともかく,それを宗教観の中心に据えて“神の道”を歩んできた多くの先祖がおり,彼らの生き方や精神を尊敬することを非としていないのと同様である。

私が言いたいのは,聖書の一字一句に神性があり,それらの言葉と文章が,現代の我々の一挙手一投足を支配できる,と考えることには危険がある,ということだ。

そう考える人は,トリックに引っかかってしまっている。それは,聖書そのものが偶像崇拝を非としているのに,神そのものとは別の存在である聖書を偶像視してしまう,という矛盾だ。

「聖書そのものに,書かれていることをまさにその通りに行なうように,と書いてあるではないか」と主張する人もいるだろう。しかし,その聖書には,「神以外のものを崇拝してはいけない」とも書いてあるのではなかろうか。むしろ聖書は今までに,聖書みずからを崇拝するように求めたことがあるだろうか。

偶像崇拝者の行く末は,決まって滅びである。

よって,聖書本文に崇拝的な不謬性を求め,聖書本文から年代計算して世の終わりを算定しようと試みたり,特定の医療行為の可否や,祝祭に関するルールを見出そうとする“聖書崇拝”ともいえる偶像崇拝は,決して命に至らないのである。

あのイエス・キリストも,律法の字句にとらわれていたパリサイ人を否定されたのではないだろうか。それもかなり強力に非難された。

むしろ,人のうちに宿る慈愛が真の律法であり,愛の動機でなされる行動を誰もとどめてはいけないことを教えられたのではないだろうか。周りにいる仲間は,その行動が,愛の目的を達成できるように助けたり調整したりすることによって,まさにキリストの弟子であることが証明されると教えたのではないだろうか。

愛の動機で子供に教育を受けさせようとしたり,町を,地域を,国をよくしようと行動しようとする人たちを,字句の盲信的な解釈でとどめてしまうとすれば,それもまた愛の律法を知らない間に犯してしまうという矛盾に陥ってしまうことになるのではなかろうか。