神が,いるか,いないか,という議論はあまり意味がないと考える。
私の考えでは,神がいるとすればそれはだれかが神を騙(かた)っているにすぎないはずだ。
ただ,私は,人間には「神」が必要,いや,人類の成長には必要だったと考える。
個人のレベルでも,人類社会のレベルでも,「神」をおいたほうが円滑かつ筋道立てて問題を解決できるからだ。「X」をおいて計算したほうが円滑かつ筋道立てて問題を解決できる方程式のようなものなのだ。
人類は長い進歩の末に,「X」をおいて物事を考える方法をあみだしたのだ。
王の主権が正当であることをどのように知らしめるか,民が犯罪を犯した場合に王が処罰を当たるのが正当なのはなぜか,戦いをしかけ,相手の命すら奪ってしまう戦争の正当性をどのように説明するか,これらは神という「X」なしでは説得力に欠ける。
本能で形成される蜂や蟻の社会と異なり,人間が社会を認識するためには理屈がいる。自分がどこに属し,自分がすべきこと,してはいけないこと,期待されていることをだれがどのように管理するしくみになっているのか,理屈で理解できなければ共通認識としての社会は形成されにくい。「神」はまさに社会の中心にすえられてきたのだ。
いやむしろ,人類は社会を形成しその中心に共通認識としての「神」をすえるという本能をもっているのかもしれない。
しかし時たつうちにそれが変質する。社会と共存してきた「神」は,一人歩きをはじめたのだ。
声を発することも動くこともできなかった「神」はどのようにして動けるようになったのだろうか。それは儀式を執り行う,「神」の間近にいた神官・祭司たちによる「神」の私物化によってである。
彼らは,「神」という概念的存在に人格を与え,好みを与え,言葉を与えると,国民全体だけでなく王でさえ従わなければならなくなることに気づいた。まさに自分たちが国を支配できる,というチャンスを得たのだ...
こうして,神官・祭司たちは王の辛抱の限界ギリギリまで,国民の辛抱の限界ギリギリまで「神」の名において服従を要求し,権力をほしいままにできたのである。彼らは数限りないルールを取り決め,従うべき行動規範を定めて人々を圧迫した。
円滑かつ筋道立てて問題を解決するための人類の知恵であったはずの「神」はこのようにして,今度は逆に人間を枠にはめ,束縛し,隷従させる存在へと変質したのである。
つまり,人格を持ち,目的を持つ「神」という概念こそ,ゆきすぎた方程式なのである。
他の数値から導き出すはずの「X」が,いつしか,「X」であることをやめ,他の数値を勝手に変えて,好みの解を導き出してしまう暴君へと変質し,数値を変えられた人間はもう二度と,方程式を自分で解くことはできなくなるのである。
私は,人間が,蜂や蟻以下になっては意味がないと思う。人類の本能的知恵を逆手に取ったトリック,いやトラップには用心すべきだ。
本当に考えや人格や目的を持つ神がいるとするならば,それは,このブログでいうところの「超古代神」のことであり,彼は全能の神などではない。滅亡した超古代文明を生き残った人間であり,原始生活に戻ってしまった人類の発展を願って,最低限の行動規範を伝え残したにすぎない存在である,と考えればよいのである。
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