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2013年10月12日土曜日

聖書を絶対視するのはすなわち,偶像崇拝をしているのと同じ...

以前の記事にも書いたが,聖書の原本テキストはもはや存在していないし,現存するテキスト(写本)はいずれも原本とはかなりかけはなれたものである。

じっさいにヘブライ語聖書テキストを探し歩いた学者たちがユダヤの地で肌で感じていることは,発見される写本ごとにその土地その土地の当時の風土が加味されている,という事実だ。

たしかに,コピーの技術がなかった古代ユダヤにおいて,テキストを正確に書き写すために様々な工夫がなされた時期があることも事実だ。しかしそれは原本が書き記されたあとのかなり後代になってからのことである。

原本に近い初期のころの写本は,まるで日本昔話が日本各地に伝播したときのように,物語の登場人物や背景に相当な加筆変更がなされていたのである。

現存する聖書本文を唯一絶対のものとするのは危険
そうした理由から,現在われわれが目にする聖書の本文を,唯一絶対のものとして一字一句信憑性を求めることは無理というものなのである。

最初に書かれた原本テキストにかえることはもはやできないのであり,原本が書かれて以降,政治的,民族的な理由で時の為政者に都合よく加筆変更された写本には,原本にはなかった強弁や誇張,欺瞞が紛れこんでいる可能性が強いのである。たとえば,その土地を治めていた権力者が,民を従わせるために,従順と畏怖,規範と懲罰の概念を書き加えた,あるいは誇張した可能性があるのだ。

そのようにして残された現在の聖書本文の一字一句をまさに神の言葉そのものだと考えるのは,無謀かつ非常識だ。現代のわれわれが見る聖書本文のある表現からわれわれの精神衛生が脅かされるとしたら,それは悲劇になりかねない。

ある行動をしてもよいのか悪いのか,ある思考を持ってもよいのか悪いのか,そうした人間の持つ基本的な自由や権利を,改ざんされた“神の言葉”によって支配させるのを許すとすれば,それは滋養剤であるはずの薬に農薬の説明書がつけられたために栄養失調になってしまうのと同じになってしまうのではないだろうか。

そもそも聖書そのものが,聖書を崇拝の対象とすることを非としている
ここで断っておきたいのは,私は聖書を敬い,それを神からの手紙のように感じることそのものを非とはしていない。あるいは,聖書がこれまで数千年にわたって篤信の人々から大切に扱われてきたために,彼らの生き方を尊重し,彼らのようになりたいと考えることをも非とはしていない。

それは,日本における神道の祝詞(のりと)が,その内容はともかく,それを宗教観の中心に据えて“神の道”を歩んできた多くの先祖がおり,彼らの生き方や精神を尊敬することを非としていないのと同様である。

私が言いたいのは,聖書の一字一句に神性があり,それらの言葉と文章が,現代の我々の一挙手一投足を支配できる,と考えることには危険がある,ということだ。

そう考える人は,トリックに引っかかってしまっている。それは,聖書そのものが偶像崇拝を非としているのに,神そのものとは別の存在である聖書を偶像視してしまう,という矛盾だ。

「聖書そのものに,書かれていることをまさにその通りに行なうように,と書いてあるではないか」と主張する人もいるだろう。しかし,その聖書には,「神以外のものを崇拝してはいけない」とも書いてあるのではなかろうか。むしろ聖書は今までに,聖書みずからを崇拝するように求めたことがあるだろうか。

偶像崇拝者の行く末は,決まって滅びである。

よって,聖書本文に崇拝的な不謬性を求め,聖書本文から年代計算して世の終わりを算定しようと試みたり,特定の医療行為の可否や,祝祭に関するルールを見出そうとする“聖書崇拝”ともいえる偶像崇拝は,決して命に至らないのである。

あのイエス・キリストも,律法の字句にとらわれていたパリサイ人を否定されたのではないだろうか。それもかなり強力に非難された。

むしろ,人のうちに宿る慈愛が真の律法であり,愛の動機でなされる行動を誰もとどめてはいけないことを教えられたのではないだろうか。周りにいる仲間は,その行動が,愛の目的を達成できるように助けたり調整したりすることによって,まさにキリストの弟子であることが証明されると教えたのではないだろうか。

愛の動機で子供に教育を受けさせようとしたり,町を,地域を,国をよくしようと行動しようとする人たちを,字句の盲信的な解釈でとどめてしまうとすれば,それもまた愛の律法を知らない間に犯してしまうという矛盾に陥ってしまうことになるのではなかろうか。

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